蓮澤一朗著「深淵へ」を読んで
職場の人が、社会人向けのシナリオライター養成学校(?)で一緒だったという、精神科医の人が書いた本を読んだ。
面白かった。
そして、著者も含め、ここに登場する医療従事者は基本的に暖かい人達ばかりだ。
だが、最後の話が怖かった。
生後9か月の娘を虐待死させて分裂病質人格障害と診断された女性の話で、怖かったのは、患者ではなく、話のオチの方だ。
希死念慮と無表情が回復してきた彼女に、著者が
「…そろそろ子どもさん、欲しいですか」
と聞き、彼女が
「はい」
と答える。そこで治療が完成してめでたしめでたしみたいな終わり方なのである。
なんで、また同じ事になるかもしれないのに、子供を産めとか言うんだろう?
あり得ない、と思った。
自らが女性であることが嫌でたまらない故、子供を持ったら虐待してしまうのではないかと恐れて全く産むという選択肢が考えられなかった私と、実際に産んでから虐待してしまう女性の心理は違うのかもしれないが、このオチは本当に怖かった。
この著者はいい人なのだが、この本のトーンは全体的に、バリバリのシスジェンダーの男、という感じがする。
私は、そこに、なにか自分には馴染めないものを感じてしまう。
自らの男性性になんの疑問も持たない故の、女性は本来、子供を持つ事を望むもの、と信じて揺るがない信念が、私には恐ろしいのだ。
子供を虐待死させてしまうという、究極にあってはならない経験を経て、なおも女性性を求められる、私だったら耐えられないと思う。
たった今
向かいの家に救急車と消防車が来ている。
だけど、火の手が上がっている訳ではない。
向かいの家の誰かが倒れたとかだろうか…。
向かいの家には、私は申し訳ない事をした、という気持ちがある。
精神病の状態が悪かった時、向かいの家の人達が、常に自分の悪口を言ってゲラゲラ笑っている、という幻聴があって、私は怒って怒鳴り散らした事がある。
直接人には当たってないが、確か物も投げた。
その後、向かいの家の人達は、数日、数件先の近所の人の家に避難していたようだ。
それが、たぶん幻聴であった事は、そこの家のおばあさんの声が、悪口を言っていた頃に聞こえたのと、幻聴がだいぶ治まってから(そこの家の人達ばかりでなく、道行く人からの攻撃も少なくなってから)聞こえたのとでは、全然声質が違っていたので、「ああ、本当に幻聴だったんだ」とわかったのである。
悪口が聞こえなくなってから、私は幾度となく、謝りに行こうか、と考えたが、その度に、あの時の事をどう説明したらよいか、という所で、謝りに行けずにいた。
通っていたB型の施設の職員さんに相談しても、事情を全部話すのはかえってビビるからやめろ、と言われた。
それより、会った時に、それとなく挨拶してみるように、と言われた。
でも、私がその家の人だったとして、昔そのような事をしてきた人間が、きちんと謝りもせず、なれなれしく挨拶して来たら不快ではないのか、とためらってしまっていた。
結果、その家の人達とは、会っても素知らぬふりをしてやり過ごしていた。
うちのアパートは住人の入れ替わりが激しいし、私はその当時から体重が20kgも増えて、体形も人相も変わっているので、別の人と認識されているかもしれないが。
挨拶できない心理は、他にも、もしかしたら、悪口を言っていたのは本当で、挨拶なんかしたら、また話のタネにされて、攻撃がぶり返すかもしれない、という気持ちがどこかにあって、もちろん、そんな事はないという気持ちの方がずっと多いのだが、そうでない可能性も0ではない、と未だに思っているからである。
そんなこんなで気まずいまま、年月が流れて行ったのであるが、その家では、以前、かなりの老犬を飼っていた。
歩くのもままならない老犬に、せめてほんのちょっとだけでも、外の空気に触れさせてやろうと、時々家の前の数歩を歩かせているのも見かけた。
私は、そんな時も、老犬の面倒を最後まできちんと見る、こんなに優しい人達が、悪口を言っていた訳はないではないかと、後ろめたく思った。
最近では老犬の泣き声も聞こえなくなったので、たぶんもう死んだのだろう。
後ろめたさがありつつ、でももしかしたら本当に言われていたかも、という気持ちが0ではなく、向かいの家には、複雑な思いを抱いたままだ。
最近、興味を持った人物について
このブログの中でも、かなり有名な人らしいので、名前を出さなくてもわかる人にはわかってしまうと思うのだが、とても興味深い人物がいる。
かつて、彼のtwitter上でのつぶやきを、私のfacebook友達が紹介した時、私はそれに悪態をついた。
「家族のせい、環境のせい、社会のせい、年齢のせい、性別のせい、誰かのせい、何かのせいにしている方が、多分、楽なのだと思う。自分以外の何かを悪いと言う、そうしている間は自分を見ないで済む。自分を変えないで済む。自分を真剣に生きないで済む。そして、自分の可能性を喪失していくのだと思う。」
という彼のつぶやきに、
「この〇〇とやらが、来生は親に虐待され、学校ではいじめられ、性同一性障害を持って生まれても、同じセリフが吐けるかどうか、見届けてやりたいな。」
と、私は書いた。
この気持ちは今も変わらない。
実際、この人は性同一性障害は持っていないんだから、安易に「性別のせい」を持ち出してくるのは頭に来る。
だが、ブログを読んでいると、どうやら多動持ち(ADHD)らしいのだ。
それゆえに、学校でも適応できず、親とはかなり激しいケンカになったりしていたらしい。
ブログは、全部読んだ訳ではないが、かいつまんで読んだだけでも、かなり興味深い。
そして、深い。
深いのは認めるんだけど、私はそうは思わないな、という点や、つっこみどころなどは多々ある。
例えば、
「神様は、自分を生きている人間を決して見捨てたりしない」
というのは、私は、神なんかいないかもしれないし(絶対いないではなく、不可知)、必死で生きていても悲惨な目にしか遭わない人間はごまんといるではないか、と思う。
それでも、彼の実験的生き方は、とても興味深い。
数年間、テント生活をしていたらしい。
でも、他のホームレスの人達と決定的に違うのは、彼はかなり意図的に、自分を外に向けてアピールしていた事だ。
その能力と努力があって、善意の人間を周りに引き寄せる事には、けっこう成功している。
一番すごいのは家をもらった、という事だろう。
そこで、彼はその家を普通に使うのではなく、誰でも入って来れるように鍵を閉めず、玄関に誰でも使っていい財布を置いておく。(いくら入っているのかは知らない)
私だったら平凡に、その家に暮らして、細々と食べていけるだけのバイトをし、あとは好きな事に費やす、と思う。
ここで、彼が、そういう家の使い方を選択した、というのは、私より彼の方が非凡である、という事実は認めざるを得ない。
彼は1000円で何でも屋的な事をやります(実際には奴隷という、かなりきわどい言葉を使っている)と、ブログでアピールをする。
セックスして欲しいという要望もあるらしい。
いわゆる「神待ち」の家出少女と一緒の立場でさえある。
だが、他の「神待ち」少女と違うのは、自分を外に向けてアピールする事を常にやっていて、彼を買う女性は(これから男性が現れたら、どう対応するのだろう、と不謹慎ながら興味を持って眺めている)、彼の思想に共感や理解を示す、彼のファンであるという点だ。
ここで、私は、以前本で読んだ、旅をしながら各地を転々と彷徨って生活した一団の事を連想する。
僧侶、芸人、遊女などが一緒に旅をしていたのだ。
そして、身分的には非人と一緒ながら、時の権力者とも交流したりしていた。
ここには、発達障害で、普通の職に就く事が困難だった人々がどう生きていたか、のモデルをおのずと再現したともいえる生き方が提示されている。
アスペルガーは自分のペースを乱されさえしなければ、単調な仕事を黙々とやっていられるので、比較的、就労の場をつくりやすいかもしれない。
だが、ADHDは、上に書いたように、旅をしながら各地を転々とする生き方しか向いていないのかもしれない。
彼が今後、どうなるのか、目が離せない。
むかつくつぶやきも多々あるのだが、彼の実験は、基本的に応援している。
アンケート
アンケートがなかなか集まりそうにない、という壁に早くも直面している。
このブログ、Facebook、mixiなどに投稿すると、ぽつぽつ来るのだが(ほとんど知り合いの方が書いてくれたようだ)、その後はぱったり、という感じだ。
いよいよ、紙媒体で、各大学のゼミ(ジェンダー、セクシャリティー、心理学など)を回って、協力をお願いするしかないだろうか?
あくまでも、ゼミ生に私の作ったアンケートに時間を割いて書いてもらう、というお願いで、アンケート実施自体を丸投げする、という虫のいい事は考えていないのだが、もし、アドバイスなどをいただけるのであれば、ありがたいところだ。
しかし、私は、学生でも学者でもないので、個人で興味を持って調べている、という事にどれだけ理解が得られるか、こんな試みは初めてなので、なんとも予想がつかない。
で、慎重にやるべきだと思ったのは、反フェミニズムや、性役割が強固なのはいいことだ(マイノリティーの存在を認めると国や社会が滅ぶ)という考えの人は注意深く避ける事。
手当たり次第、連絡を取る前に、どんな先生がそのゼミを仕切っているのか調べる事だと思った。
これは、回答にバイアスがかかってしまう事につながるかもしれないが、いかんせん、こちらの目的を邪魔されたり、私の意図と逆の方向に結果を利用されたりしたらかなわないので、そういう所には近づかないようにしようと思う。
http://start30.cubequery.jp/ans-02785534
↑ネットアンケートですが、まだ締め切ってないので、お時間ありましたら、ご協力お願いします。
セクシャリティーと育った家庭の家族関係
セクシャリティーと、その人が育った家族関係に、なにか因果関係はあるのか、というテーマに、ずっと関心を抱いている。
だが、このテーマは、扱いがむずかしく、あるゲイの人が、ブログで
「LGBTは家庭環境に恵まれない人が多い」と書いたら、炎上したらしい。
実際、私の知る限りでは確かにそうなのだ。
だが、そうでなかったら、LGBTにはならないか、というのは、微妙な問題である。
家庭環境に恵まれなくても、LGBTにならない人はならない。
LGBTになるには、先天的にそうなる素質を持っている、と言える。
私の仮説なのだが、種子にとって発芽しやすい条件があるように、先天的なLGBTの素質を種子に例えると、両親の仲が悪い、とか片親であるというのは、発芽条件の一つのようなものなのではないか?
この仮説は、LGBT否定派にとって、
「ほら、だからきちんとした家庭である事は大切なんだ」
と、家父長制の重要性を唱える理由に利用されかねない。
これには、私自身も身を持って反論しようと思う。
ジェンダーに対し、保守的な価値観を持つ家庭にもLGBT(Q)は育つ。
私は、生長の家の初代教祖の教えを信奉する母親の元で育った。
あと、最近のニュースの中でいたましいものもUPしておく。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/15013/20150110/leelahs-law-petition-signatures.htm
このテーマは慎重に扱わなければならないと感じたので、いつものように、ただ私の直感だけに基づいた文章を垂れ流すだけではなく、アンケートを集めてみようと思い立った。
だが、これが意外にも難しく、なかなか集まらない。
学術的にちゃんとした論文は、データは最低1000件だそうだ。
私一人で1000件は、とても無理(集められないし、集めたとしても処理が大変)なので、せめて1/10の100件位は集まらないかと思っているのだが、昨日から始めて、まだ5人しか集まっていない。
私の知り合いにアンケートをバラ撒いても、なんらかのバイアスがかかってしまいそうで、なるべくなら無作為の人々を抽出できると良いのだが、アンケートを呼びかける手段が、私のSNSかブログになってしまう。
だが、全く集まらないより、集まった方が良いので、ここでもご協力を呼びかけようと思う。
http://start30.cubequery.jp/ans-02785534
できれば、ご協力をお願いします。
質問によっては、不快なものもあると思いますが。
なお、セクシャルマイノリティーの人だけを対象としたアンケートと思われるみたいなのですが、そうでない方のデータも欲しいのです。
設問は7個のみで、複数回答可です。
よろしくお願いします。
幻想の向こう側へ行きたい⑤ 愛と自由が欲しかったんだろう
前の記事に自分でコメントをつけたが、はてなブログにログインしていない人には表示されないみたいなので、貼り付けておきます。
なぜ、そんな事をするのかというと、この前のコメントから、今回のテーマを思いついたからです。
まぁ、今ではおばさんになったから、ホレられる事自体が無くなった→ゆえに、束縛される事も無くなったので、めでたしめでたし、と思うべきか。でも、本当、羨ましかったな、そういう束縛の無い恋愛ができる人が。なんか、ニューハーフ顔で、モデル体型の人だとそういう恋愛ができそうとか、自分に無いものを羨んでいたのだが、実際の所はどうなんだろう?
さらに、MT~の人や、ニューハーフやゲイの人達は、自由に見えて羨ましかったんだけど、とある純女さんの知人(LGBTが身近な人)曰く、「ええ?ゲイの人の嫉妬ってすごいんだよ」(知らないの?的なニュアンスで)と。要は、束縛があってもものともしないだけのパワフルな行動力の問題か?
嫉妬というテーマで書いてみたいと思った。
私は、パートナーの浮気に関して嫉妬して束縛するという事はしないが(行動に対する過干渉や束縛は、かつて親にさんざんされたので沢山だ、自分も束縛しないから、どうか自分を束縛しないで欲しい、という気持ちがある)、自分が羨ましいと思う境遇を手に入れられている人に対する嫉妬心は、人一倍ある方だと思う。
で、今回のテーマにつながって行くわけだが、かつて、かなり分厚い、チャールズ・マンソン・ファミリーに関する本を読んだ事がある。
全体のトーンは、常に客観を貫き、主観的な批判、あるいは同情は抑えられていたのだが、私は、その本を読んだ時、一番興味を持ったのが、チャールズ・マンソン本人以上に、マンソン・ファミリーに入っていた信者達が、凄惨な事件(特に有名なのがシャロン・テート殺人事件)を起こすまでの心理だった。
これらの事件は、よくオウム真理教と比較されるが、オウムには無い要素もある。
女性信者による妊婦の殺害。
これは当時、なぜ女性が女性にこんなにひどい事ができるのか、世間の驚愕はそこに集まったと思う。
ドラッグ・カルチャー真っ只中の事件で、LSDでイカレテいた、というのもあると思うが、鍵は嫉妬だと思う。
有名人になりたかったチャールズ・マンソンの、ハリウッド住民たちへの嫉妬もあるが、スーザン・アトキンスを始めとする女性信者達の「愛と自由」を両方手に入れた女性への嫉妬が、大きな鍵となっている気がする。
ヒッピー・カルチャー&フリーセックスの時代。
女性信者は、一人残らずマンソンの愛人だった。
だが、マンソンはサイコパスで、信者達のルサンチマンを掬い取り、共感の意を示す事は出来ても、最後は自分自身しか愛せない。
いわゆる当時のヒッピー・カルチャーが理想とした、家父長制社会に対するアンチテーゼとしてのフリーセックスではなく、たった一人の強大な家長と、多くの奴隷による家族を築いたのであった。
これも、原本が今手元に無いので、記憶であるが(このブログ、こんなんばっかりですみません)、信者達は、厳しく無理解な親のいる家庭からドロップ・アウトした者が多かった。
自由も愛も無い家庭だ。
グレて売春婦になった母親から、徹底的な拒絶を受けて育った(というか、親元にいるより年少で過ごした年月の方が多かった)マンソンは、彼らの傷に共鳴する要素を持っていただろう。
だが、単に愛や理解に飢えた若者よりも、誰も愛す事のできないサイコパスの方が、パワーゲームでは圧倒的に有利に立つ。
フリーセックスとはいっても、誰もが対等な自由恋愛ができるのではなく、信者(特に女性信者)は、マンソンが利用したい相手に近づくため、身体を提供する道具でしかなかった。
それでも、有名な信者の一人、スーザン・アトキンスは、逮捕後、法廷で
「あんた達に何がわかるっていうの?チャーリーは、親に見捨てられ、道路に打ち捨てられた子供達(自分達)みんなを救ってくれたのよ!」と叫ぶのだ。
(このセリフも、原本が無いので、記憶によるものです。すいません)
ファミリーの女性達は皆、足首に誰の所有物であるかのタグがつけられ、昼は、ファミリーの食事をまかなうため、レストランのゴミ捨て場を漁る生活だったらしい。
(華やかな有名人に次々と近づいて行ったが、レコード・デビューも反故にされたマンソン一家は、実際の所困窮していたらしい。)
スーザンを始めとする信者は、愛と自由を求め、厳格で無理解な家を出、その愛と自由を与えてくれそうな幻想を振りまく人物について行ったが、その人物は、吸血鬼のようにそれを他人から吸い取る手管に長けていた。
愛の枯渇、精神的な欠乏状態に、さらに惨めなゴミ漁りの仕事を課せられ、ゴミ捨て場からさえ、ののしられ、追われる生活…。
全く不幸な事だが、シャロン・テートは、マンソンの指示間違いで殺されたとも言われる。
レコード契約を反故にしたプロデューサーを襲うはずが、彼は引っ越し、その時屋敷に住んでいたのが、ロマン・ポランスキーとシャロン・テート夫妻だったとも。
だが、信者達にとっては、それはどうでもいい事だったのかもしれない。
これはあくまでも推測だが、いくら豪邸でも、そこの家が古臭い価値観に縛られた、保守的で厳格な家だったら、彼らはあんな残酷な殺し方はしなかったんじゃないかと思った。
羨ましい、という気持ちを掻き立てるものがそこにあるからこそ、激情し、ナイフを数十回も突き立てたのではないか。
(一説によると、シャロンの腹を切り裂き、胎児を引きずり出した、とも言われている)
それはハリウッドのような先進的な有名人が住んでいる、彼らが決して手に入れる事ができなかった「愛と自由」が両方ある家の住人だからだったのではないだろうか?
束縛されないとさびしいという人が信じられない。私は束縛されたくない派である。
しばし「幻想」について書き綴っていましたが、極めて身近な話題をはさみます。
これは書こうか迷ったんだけど。
というのは、書かれている方本人がこれを読まないとも限らないし、極力険悪な関係にはなりたくないので躊躇していた訳です。
しかし、やっぱり書いてしまえ。(突然、削除するかもしれません)
仕事場で、昼休み、聞くつもりはないのに、聞こえてきてしまった会話。
かみさんが、男3人と飲みに行くと言うので、ぶざけるな、行くんなら(家を)出て行け!と怒鳴ったという話。
(嫌だねぇ、あたしゃ束縛男(女)は大の苦手だよ。)←私の心の声
なんか、意外だったのは、その人は音楽やってる人で、私はミュージシャン系(プロ・アマは問わず)は、そういう束縛系の人、少ないんじゃないかと勝手に思っていた節があるからだ。
一つには、それもあって、音楽をやる事への憧れもあった。
私は子供の頃、音楽の成績はひどかった。
なぜか、図工は得意だった。
両親は、私が勉強以外の事をやろうとするとひたすら猛反対したが(演劇部とか)、美術だけは別だった。
でも、私は、ひそかに美術よりも、バンドがやりたかった。
なんか、そっちの方が自由な感じがしたからだった。
いわゆる美大生には、面白い、自由な人達がいっぱいいる。
でも、それを生業としている人には、ちょっと違った印象があった。
で、これはあくまでも私の、本当に些細な経験談なので、全ての美術家の人に当てはまるわけではないと思うが、やはり自らの経験には強力な印象が残りがちなものである。
かつて、造形作家の人のアシスタントをしていた事があった。
舞台、CM、撮影などの大道具、小道具を作っている人達3人のアシスタントをかけもちしていた。
で、二人は女性で、細かいものが多く(例外もあった)、一人は男性で、一番大物を手掛け、専用のスタジオを持っていた。
そうしたら、その男性に気に入られてしまったのだが、気に入られ方が嫌だった。
私が作業している横へやってきて、私の手の横に自分の手を置き比べて、
「わぁ、小さいね」と、言ったりした。
背が低い事は私のコンプレックスだったが、そこを気に入られるのはもっと嫌だった。
「小さくてかわいい」というのは、いくらでも自分の思い通りにできそうだから良い、と言われているようで不愉快になってしまうのだ。
でも、私自身、子猫、子犬は文句なしにかわいい!と思うが、別に思い通りにできるからかわいいわけではない。そう考えると、悪意に取り過ぎなのかな、と思う事もあるのだが。
相手の支配欲をくすぐる、とかいうのが嫌だ。
そういう気に入られ方だったら、気に入られない方がマシだ。
とにかく、干渉とか支配とか束縛をされたくないのだ。
その人のアプローチは日に日に露骨になって行ったので、そこは辞めた。
なにかと、粘着的な体質を感じる人だった。
その後、また別の造形スタジオで働き始めるが、ここでもそこの人からそういう気に入り方をされた。(別に、モテた自慢ではない)
なんか、私にとっては嫌な、粘着気質を感じるのだった。
作品に対して粘り強いのはいいのだが、自分に対して粘着されるのはごめんだった。
根性が無いと言われそうだが、ここもすぐに辞めた。
さらにその後、軽いアルバイトのつもりで始めた椅子作りのアシスタントが、天職と言っていいほど向いていた。
私には、不向きな仕事がいっぱいあるので、これは貴重だったのだ。
だが、やっぱり上司にそういう感じの気に入られ方をして、耐えられなくて辞めた。
最後に、20代後半の頃、ステンドグラスを習いたくて、門を叩いた事があるが、ここでも同じことが起こった。
師匠はクリスチャンで、別にキリスト教をディスるつもりはないが、私が考えたデザインを、なにかとキリスト教の教義にあてはめて、ここはいいとか悪いとか(デザイン上の構図の問題ではなく)言ってくるのでうんざりした。
他に習っていた方は、皆年配の所帯持ちの方ばかりで、独身は私だけだったのだが、師匠は特に私を気に入っていて、他の方達は、なんかそれを後押ししようとするような、異様な雰囲気になってきた。
私は、ステンドグラスはやりたかったのだが、ここでも同じ理由でいたくないと思った。
すごく引き留められたが、辞めた。
あるピアニストの人が、その人は私が運動音痴なのを知らないので、別に何の悪気も無く言ったのだが、
「音楽が得意な人は運動もできるんだよね。美術はそうではないんだけど。なぜだかはわからない」
私は、すぐに理由がわかった。
音楽は、時間の流れと共に、次にどこへ(どのタイミングでどの音階へ)着地するかを瞬時に判断しなくてはならない。スポーツもしかり。しかし、美術は時間の流れとは関係ない。じっくり考えてから、色、構図を決められる。そこに運動音痴は関係ないからだ。
で、私はなんとなく悲しかった。
だから、美術系の仕事や習い事には、必ず粘着タイプっぽい上司や師匠がいて、私はそういう、なんかじとーっとした人に気に入られやすいんだ、嫌だなぁ、私だって、もっと自由な恋愛がしたいよ。
で、くだらないんだけど、占いとかで、牡牛座は安定、土のマテリアル、O型は…とか出て来るのさえ、それを思い出していちいち嫌になってしまう。
私だって、風や水が流れるような奔放な生き方をしたいのに…みたいな一人愚痴。
で、音楽をやっている人は自由人で、恋人を束縛したりしない、というイメージが勝手に出来上がっていた。
だから、職場の人の会話が意外だった。
ゆえに、聞くつもりないのに耳に入って来てしまったのだが…。
音楽をやっている人は自由人で、相手の事も束縛しない?本当にそうなのか?根拠は?
だって、今まで音楽の趣味が合った人は、束縛タイプいないし…。
もしかして、それは、私の音楽の趣味と声で、私の事を束縛する対象ではない、と判断していただけだったのかも。
そう思うと、一つ、合点がいくような気がしてきた。