狂人作家         黒田幻の日記

    心理学・精神分析に興味を持っていた社会不適応者。ついに自分自身が精神病になる。    幻覚・幻聴実体験記「狂気」絶賛発売中!

たぶんアスぺとADHDを合併している

 B型作業所に通っていた時、職員からADHDを疑われていた。

 面と向かって「あなたはADHDです」と言われた訳ではないが、計画相談の時、「よく、これこれこういう事をしてしまいませんか?」などの質問で、「はい」と答えると、やっぱり、という顔をされるので、たぶんそう思っているのだろうな、と。

 

 ところで、私の親は、たぶん両親ともアスペルガーだと思う。

 父は他界してしまったし、母も高齢なので、診断こそ降りていないが、話の一方通行さ、間の悪さ、回りくどさ、他人(子供等を含む)の考えや感情を全く理解しようとせず、勝手に自分と同じように考えていると決めつけての言動、もしくは自分の価値観の押しつけなど、アスぺの傾向を色濃く持っていた。

 両親がそうなのだから、当然、自分もアスペルガーに近いと思っていたのだが、他人の目に映る私の言動は、ADHDの疑いを抱かせる、というのが少し意外だった。

 

 が、よくよく考えてみると、私の子供の頃は、勝手に幼稚園や小学校を抜け出して遠くへ行ってしまったり、隣の教室へ紛れ込んだり、確かにADHDっぽかった。

 なにより高い所が好きで(今では全くそうでないが)、屋根に登るコツを近所の子に教えて、その家を出禁になったり、江の島で、入場禁止になっている洞窟にどうしても入りたくて、絶壁をよじ登ったら、「子供が危険な所にいる!」と、多数の観光客が大騒ぎになったり、ADHDの特徴がいっぱいあった。

(親も親だったが、私も親に怒られて当然のような行動は沢山していた)

 

 アスペルガーADHDでは真逆な特徴もいくつかあるのに、なぜだろうと思っていたら、偶然TVに、沖田×華さんという漫画家が出ていた。

 彼女は、アスペルガーADHDを合併している、という事で、そういうケースもあるのか、と思った。

 子供時代からいじめられ、努力してなった看護師の仕事もさっぱり上手くできず、怒られてばかりだったという話は、身につまされる思いだった。

 

 私も、仕事という仕事が全て適応できず、唯一続いたのがポスティングという家々のポストにチラシを入れていく仕事だけだった。

 指示の意味が理解できないし、電話受けができない、並行作業ができない、と、できないづくしである。

 だが、親はそんな筈はない、と信じなかった。

 子供の頃、暗記は苦手だったが数学は得意だった。(多くの発達障害の人は逆らしいが)

 作文や絵も得意だった。

 幼稚園を抜け出してしまう癖も、それで受診した病院で受けた知能テストの結果、「頭が良すぎるから退屈するのでしょう」と先生から言われたのだと母親は言っていた。

(これはかなり母の希望的な見方が入っているような気がするが)

 まぁ、とにかく得手不得手があるようだ。

 

 あらゆる仕事に全く適応できなくても、結婚したいとは夢にも思わなかった。

 一つには、性別に対する違和感が幼少時からあるので、結婚したら決定的に女性の性役割に押し込まれてしまう、という恐怖感。

 あとは、これがあるから性役割に抵抗があるわけだが、仮に性別違和がなかったとしても残るであろう私の特徴、家事全般が苦手という理由が大きい。

 一人暮らしだから、洗濯物の干し方がいい加減で、どんなにしわくちゃになっていても、毎日同じ食事でも、部屋の中が散らかり放題でも許されるのであって、これが家族分の家事をしなければならないとか、考えるだけでも地獄だった。

 あと、自分の部屋が無く、一人になれる時間が無い生活というのも地獄だと思っていた。

 まぁ、これには昨今のブラック企業に勤めていたとしたら、どのみち残業地獄で一人の時間はおろか、睡眠時間すら無いのだから、それよりは結婚の方がましなのだろうか。

 

 幸い、私はブラック企業に捕まった経験が無い。

 多少なりともブラックっぽい所は、まず面接が受からないし、受かったとしてもすぐクビになる。

 工場への派遣の仕事で、ブラックな世界を垣間見た事はあるが。

 

 こんな訳で、出来ない事は極端に出来ない私であるが、最近、ある発見をした。

 それは、アスぺの人は几帳面とか、ルーティンワークが好きとかいうが、好きというのとはちょっと違うのではないか、という事である。

 

 以前読んだネットの記事で、男脳と女脳の違いをこう説明していた。

 「女性の脳は、作業台が広い状態、男性の脳は、作業台が狭くて、引き出しがいっぱいある状態にたとえられます。」

 女性の脳は、右脳と左脳をつなぐ脳梁が太いので、並行作業が得意だというのである。

 

 対して、アスペルガーの特徴は並行作業が苦手。

 別のネットのカキコミで、「アスぺは男脳」「フェミの女性はアスぺの気がある人が多いのでは」(これはフェミニズムに悪意のある人が書いたのではなく、アスペルガー当事者が自分の体験に照らし合わせて推測して書いたらしい)というのを見かけたが、確かに、私は、そういう所から性別に対する違和感を膨らませて来たともいえる。

 

 で、通常男性よりもさらに並行作業が苦手な私は、作業の手順を極端に合理化し、ルーティンワークにしてやらないと、混乱して出来ないのだ。

 自分なりのルールを作って、それに従ってやらないと出来ない。

 

 アスぺの人は、真面目で几帳面で変化の無い生活が好き、一方でADHDの人は、決まりきった毎日が大嫌いで変化に富んだ冒険が好きというが、私の場合は、別に変化が無い事が好きな訳ではないが、自分のルール(手順や法則)に沿わないと、今何をしようとしていたんだか、訳が分からなくなってしまうのである。

 

 これは、アスペルガーの人全般がそうなのか、アスぺとADHDを合併している人のみがそうなのか、興味深いところだ。

少子化問題と子供を持つ事を希望しなかった私の事について

 市民運動系のデモや集会では「子供をまもれ!」と言うものが多い。

 今自分だけの問題ではなく、未来の事を憂いての発言なんだから、それは当然の表現でもある。

 子供のいない私は~たまたま子宝に恵まれなかったのではなく、絶対に結婚・出産というレールを忌避していた私は、自分がそのコールを復唱する資格があるのか、いつも複雑な気持ちになりながら唱える。

 

 だが、ニャートさんの「東大女子を過労死させたり、京大専業主婦をもったいなくさせているのは日本社会」というブログを読んで、今までモヤモヤしていた部分が、すごく腑に落ちた個所があった。

 それは「私のように地頭が悪い子どもは、膨大な時間を受験勉強に捧げることになる。だが、大学卒業後に企業から求められるものは、受験勉強とは全く違うものだ。」という個所だった。

 私も、彼女とはちょっと違うが似通った事情があり、一時期ガリ勉していた。

 だが、世の中の人間関係、仕事には全く適応できず、精神病を発病するまでは、ただただ辛い人生だった。

 結局、障害者になり、今の就労支援で働けるようになって、初めて音楽などの趣味に費やす時間もでき、文化的な生活といえる生活ができるようになった。

 今が人生で一番幸せだ。

 

 で、これは人によって意見が分かれる所だと思うが、両親とも生活保護障害年金でなんとか生きていける人が、新たに子供を持ちたい、と思う事には、私は常々懐疑的であった。

 自分たちがそうした保護や措置無しでは生きてゆけないのに、生まれた子供は当然自分たちの遺伝子を引き継ぐわけで、そうした子供達が、保護なしで生きて行けるのかどうか、不安にならない、というのが、きわめて無責任な感じがしてしまうのだ。

 

 私が子供を持ちたくなかった理由というのは、性別違和や、まず自分の自由が無くなるのが嫌だという、それだけでも十分な理由があったが、今までなんかモヤモヤしてはっきり語れなかった部分もあった。

 そう、それが、自分が障害者になって保護される人生の前は、ただただ社会に適応できずに辛いのみだった事に由来する。

 自分の遺伝子を引き継いだ子供が、この世の中に生まれてきて幸せになるはずがない、という予感である。

 

 自分自身が、死にたくても死ねないというだけで生きていて、人生に何の希望も見いだせなかった。

 これと同じ思いをしなくてはならない人間を、わざわざこの世に産み出す、というのが、きわめて残酷で無責任な事に思えるのだ。

 

 今、少子化が加速する中、恋愛も結婚も望まない、子供も作る気も無い若者が問題視されているが、彼らも、たぶん、私と同じように感じているのでは。

 

 単にデートしたりの出会いや、子作りの時間を持てるようにするために、というだけでなく、若者自身が生きていて楽しいと感じられるようになり、だから生まれてきて子供も楽しいだろうと思えるいう社会にするために、ブラック企業対策は、少子化対策とは切っても切れない気がする。

 

 そして、生きていて辛くない若者を増やすためには、仮に、発達障害があっても、セクシャルマイノリティーであっても生きやすい、多様性を認める社会にしていく事も肝なような気がする。

 

 バーニー・サンダースさんの本に、「彼ら(保守的な議員やキリスト教原理主義者など)にとっては、セクシャルマイノリティーは反家庭なのだ」という一文があったが、これも、私にとっては、自身が渦中にある、しかし、モヤモヤしてすっきりとした答えが出せない問題であった。

 

 私は、母親が日本会議のルーツになった人達と同じ「生長の家原理主義」(今の教祖の代の「生長の家」はずっとリベラルになっている)の考え方だった。

 

 私もやはり、「家庭」という概念に嫌悪感を抱いていた。

 家父長制、そして女の子だけがやらされる「家庭科」(年がバレる。笑)が大嫌いだった。

 

 セクシャルマイノリティーの皆が、単に同性婚が認められたら幸せになるか、には、当事者からも疑問の声が上がっている。

 「家庭」などと関係なく生きられる事こそが、セクマイに生まれて良かった事だ、と言い切る当事者もいる。

 予測であるが、そういう人は、たぶん皆、保守的な家庭観に自分を否定され傷つけられてきた人達だと思う。

 親がリベラルな考えの持ち主で、セクマイを肯定する環境で育った人は、割と「同性婚」が認められる社会を歓迎するのでは。

 

 そして、子供が生まれないカップルでも、不幸な子供を引き取って幸せにする事はできると思う。

 「チョコレート・ドーナツ」という映画は、このテーマを正面から扱っている。

 

 補足:私がこのような考えに至る前、ひたすら結婚や出産というコースを嫌悪・忌避していた頃の心境~そしてそのあまりに精神病になった~をつづったのが拙著「狂気」です。

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宇多田ヒカルさんが出ていたTVを観て思った事

 ふだん、ほとんど洋楽しか聴いてない私が、なんとなくつけていたTVで宇多田ヒカルさんが出ていて、そのまま聴いていた。

 

 で、ずっとこの人はすごいと思っていたのだが、さらに別の意味でもすごいと思わされた。

 

 以前からそう思っていたのは、作詞作曲の才能である。

とかくリズムに乗りにくいと言われている日本語の歌詞を、彼女はとてもリズミカルなメロディーに乗せてしまう。

 そういう意味では、サザンもすごいのかもしれないけど、私個人は、桑田さんの歌詞の、女性をあくまでも自分とは異質な者としてとらえているような、なんというか、脂ギッシュな男目線みたいなのがバリバリ伝わって来る所が苦手である。

 それに比べると、宇多田さんの歌詞は、「あなたと私」ではなく「私とキミ」だったり、印象が良かった。

 そして、デビューしたのが10代であったのにも関わらず、自己中心的な感情の赴くままに突っ走る恋愛ではなく、自立した大人同士の恋愛特有の緊張感みたいなのが常にある所が不思議でもあった。

 その不思議さと相まって、私は素直に、彼女は天才だと思っていた。

 

 で、今回別の意味ですごいと思ったのは、彼女の母親に対する感情だ。

 以下、録画していた訳ではなく、私が覚えている事だけを伝え書きしているので正確ではないが、

「人間の基本的な人格が形づくられるのって、2~3歳位までじゃないですか。でも、普通はその頃の事って覚えてないんですよね。空白の2~3年間。そして、それが空白であるから、全ての悩みとか苦しみがそこから出て来る。私が親になって変わったのは、その空白がわかった事。自分の子供を見ていて、あの時母親は、今の私と同じ感情だったんだ、自分の子供の頃って、ああこんなだったんだっていうのがわかって。そこで、親に対する感謝とか出てきました。」

 

 何がすごいって、悩みや苦しみしか無い所から、「感謝」が出て来るのがすごいと思った。

 

 宇多田ヒカルさんの母親の藤圭子さんといえば(以下、ネットでの噂や世間の評判からの記述です。藤さんのファンの方からは反論があると思いますが)、再婚相手との生活の邪魔になるから、娘を海外に住まわせ、売れたら今度はとたんに親面し、あげくには自殺してしまうという、親としては最悪の事しかしてこなかった人だ。

 そして彼女も統合失調症を患っていたという。

 

 自分が子供を持つという事。自分の子供に対するまなざしが、かつての子供であった自分への親のまなざしのように感じられる。

 

 これは、子供を持たない私も、たぶんそうであろうと常に予想していた事である。

 

 だからこそ、これはもう、私にとってはすごい恐ろしい事だった。

「もう嫌だ、死にたい」「こいつが死んでくれたらいいのに」

ありとあらゆるネガティブな感情が詰まったパンドラの箱のようなものに感じられた。

 

宇多田さんの場合は、自分でも意外なポジティブな感情が出て来た、という事なのだろう。

彼女には離婚しても困るどころか、十分な稼ぎがあり、それが心の余裕にもつながったとも考えられるが、それにしてもすごい事だと思った。

 

パンドラの箱からは、ありとあらゆる災いが飛び出したが、最後に「希望が残った」。

このエピソードを連想したのは、彼女の「感謝」という一言だった。

 

私は、子供を持たないまま、子宮体癌になって子宮・卵巣を全摘出した。

パンドラの箱は、最後まで開けられなかった。

 

虐待は連鎖するとも言われているが、子供を虐待してしまう母親のケースで一番多いのは、本当にひどい身体的虐待を受けていたり、宇多田さんのように母親から拒絶されていたようなケースよりもむしろ、私のように過干渉な母の元で育ったケースだと読んだ事もある。

 

だから、私は開けなくて正解だったのかもしれない。

 

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ご無沙汰していてすみません。

色々とバタバタしていました。

母と友人に立て続けに腫瘍が見つかり、心配事もあったのですが、先ほどわかったのが、12cmもある友人の大腸の腫瘍は陰性だったという事です。

なんか、すごく嬉しい。

後は、母の膵臓の腫瘍ですが、来週結果がわかります。

 

で、今朝の事なのですが、起きたら、なんとも言えない終末感があって。

たぶん気候のせいだと思うのですが(朝起きても暗い&低気圧)、なにかすごく悪い事があった後のような感じ、世界が終ってしまった、自分はもう死ぬ、というような感じにつきまとわれていました。

これは統合失調症にはよくある世界没落感というものらしいのですが。

たぶん、鬱の人の鬱状態とはまたちょっと違う落ち方だと思います。

 

私のは、そんなに重症ではないので、作業所に行って、作業をしていれば気がまぎれる程度なのですが。

 

それでも、作業所でBGMで沖縄民謡が流れると、国の翁長知事と沖縄県民に対するひどい判決の事が頭から離れず、沖縄の全面積の割合からしても相当な巨大な基地が作られる事が、悲しくてしょうがなくなってきました。

 

まぁ、沖縄の判決の事と、友人と母に腫瘍が見つかった事などが重なり、理由の無い落ち方ではないのですが。

 

作業中はなんとか気がまぎれていても、帰るとまたどよ~んとした終末感が襲って来そうで、ここはなんとか気分を上げよう、と帰りは「揚州商人」というラーメン屋に寄って、大好きな酸辣湯麺の刀切麺を食べました。

写真が無くてすみません。

 

いやはや、こうして、何かというと、喰いに逃げるから、なかなか脱デブできないのだな。

 

帰ると、やっぱり変な終末感に襲われ、以前通っていたB型作業所の知り合いに、「最近どうですか?」みたいなメールしたり。

でも、自分がこういう状態だとは言えず。

だって、送った人達の方が、鬱と交通事故の後遺症とか、重い薬の副作用とか併発していたりで、私より大変なのだもの。

今通っているA型でちょっと仲良くなった人も、母親から精神的虐待みたいにひどい言葉の暴力を受けていて、それでも同居せざるを得なくて、私みたいに気楽な一人暮らしが泣き言を言える立場ではない。

 

でも、命の電話とかに電話するほど大変な状況ではなく。

たぶん、電話してもなかなかつながらないだろうし。

いや、命の電話は、死にたい人がかけるもので、別に死にたいのではないけれど、死ぬような気がする、世界が終るような気がする時に掛けるものではないのだと思う。

 

ほんの5分でも主治医の先生とか、計画相談員の人とかの声を聞きたい気がするが、夜には、それもできないし。

 

とりあえず、友人にメールしたら、「今日病院へ行って、腫瘍が陰性だったよ」と返ってきました。

なんか、本当にうれしかった。

縁起担ぎついでに、母にも電話してみました。

明日も検査なのですが、タクシーで行くので付き添いはしなくていいとの事。

来週の月曜日は、母の結果がわかるが、その日は私も付き添いで病院へ行きます。

 

色々と確執のあった母だけれど、無事であるといいと思う。

津久井の虐殺事件について思う事

前の日記から一か月近くも間が開いてしまった。

 前回、前々回と都知事選の事を書いていたが、今回は津久井の虐殺事件について、気になっていた事を書いてみようと思った。

 

 自分的に印象が強烈だった事の一つに、犯人の入れ墨の絵柄があった。

 障害者へのヘイト、そして犯人自身も精神障碍者である事は、多くの報道が取り上げているが、個人的にあの入れ墨の絵柄が、頭から離れない。

 私は、タトゥーいいんじゃない派なので、入れ墨をしているからダメ的な見方はしないのであるが、あの異様な柄~おかめとひょっこ、そしてひょっとこの面がパカッと割れ、中から般若が出て来る絵柄は、多くの入れ墨をした人達を載せている雑誌とかを時々買っていても、今まで見た事がない。

 

 普通にやくざやヤンキーをしている人達は、そのまんま強そうな柄を入れるものだが、あの、ひょっとこの面がパカッと割れる図案は、一体誰が考えたのだろう?

 もしかしたら、私が知らないだけで、昔からある有名な絵柄なのかもしれないが、まず珍しい。

 私が思うに、本人が考案してそういう絵柄を入れてもらったのではないかと。

 

 昔の知人は一様に、「人当たりが良く、明るい性格」と言っていたが、本人にとって、それはずっと演技している仮の人格で、本当の自分はそうじゃない、という思いがずっとあった事をあの入れ墨で表明したのではないか、という気がしている。

 

 本音の自分を出せない、というのは、子供時代の自分にも心当たりがあった事なので、なんか気になるのだろう。

 

 とはいえ、私の場合は一見「地味で大人しそうで根暗」「でもパンクやヘヴィメタルが好き」という、久保キリコの漫画のツン太君やツグム君のようなキャラだったので、ある意味もっと分かりやすいキャラだった。

 大人になってからは、そのギャップをそのまんま出していたので、それで救われていたようなものだ。

 

 あの犯人は、私とは違って、明るく、誰とでも打ち解ける一面を持っていた。

 私のような人付き合いが不器用な者から見れば、そんな切り札を一枚持っている位なら、世渡りはもっと楽だろう、と思いがちだが、彼は彼で、たぶん怒りを隠し、おどけた役を演じながら、演技せざるを得ない自分に相当のいらだちと屈辱を感じていたのではないか。

 

 なぜ演技せざるを得ないのか?

 それは、自分が牙や爪を出したら自分より絶対的に強い存在に叩かれる、牙や爪は常に隠さなければならない、というのが根底にあるからである。

 

 子供の頃の私にとって、それは親であったり、いじめっ子等の存在であったり、親が教え込んだ価値観上での世間というもの(それは実際の世間の大人たちではなかった)だった。

 

 あの犯人にも、そうした存在があったのだろうと思う。

 そして、マグマのように地下に流れる怒りの噴出の矛先は、そうした逆らえない存在に対してでなく、一番弱い存在に向かった。

 

 世間をゾッとさせたのは、単なる場当たり的な弱い者いじめではなく、より強い者に媚びるという、自己の怒りを抑圧していた時と同じ精神構造のまま、怒りを解放し、それを正当化する手段を得た、というグロテスクさであろう。

 

 彼を抑圧していた何者かは、ヒットラーや時の政府に姿を変え、それらに媚びる形で牙や爪を出せる理由を見つけたのだ。

ヒットラーの思想が降りてきた」というのは、本当に文字通り降りてきたのであろう。

 

 これから、精神鑑定が始まると思うが、たぶん彼は、正義は力のみであり、弱さは悪である、という考えを幼少の頃から持っていたと思う。

 そして人生のどこかで、そうした強烈な刷り込みがあったのではないか。

都知事選

 宇都宮さんが降りて1週間。

 ショックだったけれど、とにかく今回は鳥越さんに入れようと思う。

 なかなか気持ちの切り替えがすぐできたわけではない。

 なんで、政策を何年も練りに練ってきた宇都宮さんが降りて、「政策はこれから」と言っていた鳥越さんに一本化しなければならないのか、すっきりしなかった。

 だが、鳥越さん個人に対して反感を持つ人もいるようなのだが、それもちょっと違うと思った。

 あくまで鳥越さんは「是非に」と担ぎ出されたようで、問題は、市民連合や野党側の中に、何かはわからないが、確実に、宇都宮さんが都知事になっては都合が悪い理由が存在するらしい事だ。

 

 この間の動きは、宇都宮さんの方は、野党側が誰を出すか様子を伺い、出馬宣言を、これ以上遅らせたら諸々の準備ができない、というぎりぎりまで待った。

 それとほぼ同じタイミングで石田さんが出馬する、という話が。

 宇都宮さん側が石田さんと話をしたいと日程を調整していたら、いつの間にか古賀さんになった。

 再度、古賀さんに話し合いの要請をし、たぶん平行して、選対が、宇都宮さんに一本化できないか、野党4党や市民連合に働きかけていたようなのだが、いづれも答えは、「中心部が決める事なのでいかんともする事ができない」というような返事だったらしい。

電話に対応した人は、「私も、宇都宮さんがいいと思うのだけれど」と言った人も少なくなかったという。

 で、古賀さんが語ったところによると、古賀さんが「鳥越さんが出馬の意向があるらしい」と言った途端、野党側は、猛スピードで鳥越さんへのコンタクトを開始し、岡田さんが鳥越さんに「是非出て欲しい」と要請したそうだ。

 

 私が単に宇都宮さんのファンだというひいき目を除いても、前回は次点だった人。知名度だって、都民からの信頼だってある。

 連合側、野党側が最後まで宇都宮さんを無視して、他の候補者探しに必死になっていたのは、どう考えても不自然だ。

 市民連合のHPへの書き込みを見ても、連合の個々の人には、「宇都宮さん」を推す書き込みが見られた。

 

 都合の悪い何かとは何か?

 脱原発を本気でやられては困るのだろうと憶測する人もいれば、その他諸々の既得権益と言う人もいて、私も実態は掴めていないのだが。

 だが、ここら辺を抑えておかないと、これから先、宇都宮さんを応援する一市民としては、また同じ事になると思った。

 

 宇都宮さんは、これからもずっと運動は続けて行くので、応援する側としては、そこら辺の知識と、どう対処していくかの能力が必要になると思う。

 

 今まで、私は議論とかは苦手で、複雑な政治の事情にも疎く、チラシ配りとか、自分のできる事で役に立てればいいと思いがちだったが、今回の一連の出来事で、もっと情報を仕入れて戦略的に物事を考えられる人間にならないと、応援すらできないのだという事を思い知らされた。

 

 

 

都知事選

民進党が、石田さんを担ぎ上げたり、古賀さんを担ぎ上げたり、そして一日もしないうちに鳥越さんにしたりして、バタバタしている。

宇都宮さんの陣営もそうだが、石田さんや古賀さんも大変だろう。

 

今日、宇都宮さんが希望した話し合いで、鳥越さんと、たぶんどちらかが降りて応援に回る事になると思う。

 

昨日今日とチラシを配りながら、複雑だった。

休みを取ってまでまいたチラシが無駄になるかも、という事はどうでもいい。

個人的に宇都宮さんを応援したくて、自分にできる事を着々としたまで。

自分は宇都宮さんファンなので、宇都宮さんが降りたらさびしいけど。

でも、都知事選ではなんとか野党側の人を当選させなければ、ヤバい事になる。