遁走と没入
いわゆる解離性遁走のように、その間の記憶が無くなるわけではないのだが、幼少時、突然、家や幼稚園から抜け出し、行方不明になる事がよくあった。
それは突然、啓示のようなものがやって来るのだった。
どこかにすごく楽しい、わくわくするような事が待っている、それは、今、すぐ近くまで来ている、という感じがしてきて、居ても立ってもいられなくなり、その「どこか」に行きたくて、当てずっぽうに遠くへ行ってしまうのだ。
そして、とにかくやみくもに歩いて行っても、そんな場所へはたどり着けないし、期待していたような楽しい出来事とは巡り合わない、という失望感と、肉体的な徒労とで、シュンとしながら帰って来ていた。
時には、帰り道がわからなくなって、警察のご厄介になる事もしばしばだった。
母は、私のこの癖を持て余していたが、幼稚園でも度々遁走するので、ついに、精神科へ連れて行け、と言われたそうだ。
病院では、「電気ショックを与えましょう。」という方針が出て、母は、「そんな事をやったら、ますますキ〇ガイになってしまう。」と思い、連れて行かなくなった。
この癖は、やっと立って歩ける位の幼少時から始まって、二十代位まで続くのだが、年長になるにしたがって、わけのわからない衝動、というよりは、気ままなぶらり散歩や一人旅、といったものに近くなっていく。
そして、現在は、全く、当時のような衝動がやって来る事はなくなったので、年齢は大きなカギなのかもしれない。
思春期ではなく、幼少期に始まっているが、エロティックな衝動のような気が、なんとなく自分でもしていた。
発情期になると、家で飼っていた猫が(まだ去勢や避妊手術をしていない猫の場合だが)、外に出たがってしょうがないのを、自分が遁走する時と似たような心境なんじゃないかと思って同情したりした。
発情期の猫には、はっきりと、出会いを求めて、という目的意識があるのだろうが、私の場合は、出会いたいのは人間なのかどうかすら、わからないのであった。
何をどうしたいのか不明だが、とにかく衝動だけが押し寄せてくる感じだった。
似た感じが、おもちゃのブロックで建物を作っている時にあった。
子供時代の私は、光るものや透明なものに弱かったが、当時、家には透明なブロックがあった。
その透明なブロックだけを作って、建物を作っている時、妙な陶酔感があった。
残念な事に、屋根や土台の部品には、透明の色のが無かったので、全部透明というわけにはいかなかったが。
それを窓際に置いて、ブロックの建物の中に光が差し込み、動かすと光が揺れる様子を、いつまでもうっとりしながら眺めていた。
自分が小さくなって、その建物の中にいる事を夢想しながら。
物理的には、自分が移動して遠くへ行く事と、小さくなって何らかの対象物の中へ入り込む事は、全然違いそうだが、私の個人的な感じ方としては、これらは非常に近かった。
いや、同じと言っても良かった。
どこか遠くへ行きたい願望は、具体的な他人と出会いたいというよりは、とても魅惑的な、うっとりするような世界があって、その中に入り込みたい、という感覚だった。
その世界に入り込んで、そこと一体化する事が、なにか神聖な事のようでもあると同時に、非常にエロティックな事だった。
あの感じは何だったのだろう。
使い古された言い方だが、胎内回帰願望なのだろうか。