読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

狂人作家         黒田幻の日記

    心理学・精神分析に興味を持っていた社会不適応者。ついに自分自身が精神病になる。    幻覚・幻聴実体験記「狂気」絶賛発売中!

「お嬢様になるように」育てられた人間の逆コンプレックス

 大人になって、世間の価値観というものの成り立ちを理解できるようになると、やっとわかってきたのだが、私には子供の頃、なぜ自分がそう思うのか自分でも不思議な心境、というのが多々あった。

 例えば、映画や演劇を観ていて、今でいうビッチ~娼婦とかスケ番とかが羨ましくてたまらなかった。

 これは、単純な心理で、過干渉の家庭で育った私には、今でいうDQNのたくましさこそ、自分が一番身に着けたいものだったからだろう。

 対照的に、なんとなく皆からバカにされているガリ勉君とかには、すごく同情してしまい、その描かれ方はコミカルでも、決して笑えなかった。

 

 そして、どんなにDQNやビッチに憧れようと、自分がリアルで不良をやる事は無理だと思っていた。

 コミュ障だったからである。

 

私は放任家庭を経験していないので、放任で育てられる辛さはわからない。

だから、どっちが辛いかなんて比べようが無い。

でも、たぶんコミュ障は過干渉家庭の子が圧倒的に多い気がする。

過干渉で育てられる事が、その本人にとってはどれだけの劣等感を産み出すか、過干渉をする親は全くわかっていないと思う。

 

私は子供の頃、集団で遊ぶのが苦手で、とにかく休み時間は勉強をしていればやり過ごせるので、ずっと勉強していた。

その癖、それで親や他の大人たちから「良い子」と思われるのがものすごく嫌だった。

そう思っているかのような言動を親がすると、自分の存在を丸ごと全否定したい衝動にかられた。

 

小学生か中学生の頃、近所の東大生のお兄さんが

「幻ちゃんは何故勉強するの?」と、聞いてきた。

 私は「金の為」と、答えた。

 それは本心ではなく、大人達が一番嫌がりそうな答えを言いたかっただけであった。

 

 大袈裟だと思われるかもしれないが、子供時代の心境を一言で言い表すなら「暗黒」だった。

 

 この事は私にも責任があるだろう、と思われる方も当然いると思う。

 なぜ、みんなの輪の中に入って遊ぶ努力をしなかったのかと。

 たとえ、家では5時間勉強しろと後ろで見張られるような家庭でも、学校の休み時間は親が監視している訳ではないだろう、と。

 

 他の子といると自分がすごく惨めだった。

 だから私はいつも一人でいる事を選んだ。

 

 なぜか、他の子達は皆輝いて見え、自分だけがその輝きを身に着けられないのだった。

 

 私は、なんでも先回りして私の事を決めてしまう母親と、後ろで勉強しているかどうかいつも見張っている父親が、私から、他の子が身に着けているような輝きを奪ったと、両親をずっと恨んでいた。

 両親は、お嬢様に育てたいといっても、いわゆる世間の人々が想像するようなお嬢様のイメージ~派手な世界に生きてセレブになるような道に通じそうな習い事や部活動は決して許さなかった。

 どちらかといえば、ひたすら地味でしとやかで従順で奥手に育て、貞淑だけが取り柄という売り込みで、見合いでいいところに嫁がせるような娘を期待していた感があった。

 自分に魅力~他の子達が持っているような輝きが無いと感じていた私には、それで嫁に行って大切にされるという想像は全くつかなかった。

 どうせ、私から見ても魅力のない夫と結婚させられ、その夫にとっても私は魅力が無く、家政婦としてこき使われるのだろう、というイメージしかなかった。

 それは、私が最も望まない自己像であり未来像であった。

 実際に見合いで結婚した両親の仲が悪かった事も影響していたかと思う。もし彼らの仲が良かったら、見合い≒おとなしいながらも、優しく上品な夫が待っているイメージが沸いたかもしれない。

 

 今思うと、私がコミュ障なのは、親の育て方も影響しているが、生まれつき発達障害っぽかったのも多分にあると思う。

 

 以前通っていたB型作業所で、とにかくこれを読んで欲しいと、斉藤学の本を無理矢理私に渡した人がいるけど、その人も、昔の私と同じように親を恨んでいた。

 だが、どう見ても彼の日頃の言動のズレ方は、何か他の要因をも感じさせるのであった。

 

 コミュ症なのは、親のせいばかりではないと思う。

しかし、なりたい自己像に近づけそうな手段を全て先回りして封鎖されたのは確かである。

子供の頃の私には、なりたくない自己イメージしか、選択の余地は残されていなかった。

 

 そして、今の私は、親の期待通りには全然なっていない。

社会のド底辺のメンヘラだ。

そして、どこかでそれを「ざまあみろ」と思ってしまう自分がいる。