狂人作家         黒田幻の日記

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幻想の向こう側へ行きたい④ ニンフォマニアとAセクシャル

 昔読んだ澁澤龍彦の本の中に、「月の顔」という言葉が出て来た。

 今、手元に現物が無くて、記憶を頼りに書いているので、正確ではないが、確か

月の意味するものは純潔であるが、もう一つの意味は邪淫、二つはコインの裏表のようなもので云々…

みたいな事が書いてあった。

 

私の以前のブログで、「Xジェンダーは、自分自身が一人でいながらその半身と一体になった状態を探し求めている性だ」と書いた。

 

それは、純潔、邪淫に共通するテーマでもある、と思いついた。

 

密教の修行で(これも現本が無いので記憶です)厳格な性への禁忌を貫いた僧が、肉体が消滅した後、涅槃にて魂の伴侶と一体になったと言われたそうだが、この同じ密教が、チベット発祥のものになると、真逆ともいえる形態を取る。

これを実践していた方々は、あくまで大真面目に修行としてやっていたので、今風の言葉で興味本位に書くのもなんだが、一種の乱交、それも行為の後で、高位の僧のザーメンと尼僧の愛液の入り混じったものを飲むとか、高位の僧の糞便を食べるとか、さらにそれを墓地でやるとか、すさまじいのである。

しかも、向こうの墓地というのは、鳥葬。

死んだ人の肉を、カラスが食べやすいように大きな刀で切り刻み、骨は風化するに任せる。(でも、決して、こちらで言う死体の損壊・遺棄のような行為ではなく、鳥がその人の魂を天の高くまで運んでくれる、という厳かな儀式的意味合いがあるのだ)

だから、墓地は、荒れた山肌に、骸骨が累々と転がっている、という光景だ。

 

キリスト教に於いても、純潔とエロティシズムは裏表と思わせるような歴史的な記述は沢山ある。

厳しい禁欲的な修行の末に見えるというキリストの幻視は、どこかエロティックな恍惚感に満ちている。

 

急に話の舞台を現代に戻すが、誰とも付き合わないで孤独を通す事と、セックス依存症は、真逆のようでどこか似ているかもしれない。

セックス依存症の人にとって、性の相手は、自分の中にある幻想の境地にたどり着かせてくれるための装置のようなものではないかと。

そして孤独は、つきつめると幻想の中の伴侶と一体になる行為とも言えないか。